
この時代は上海人の陳恵文が紅楼を経営していました。「滬園劇場」、「滬園茶室」、「大衆劇場」、「紅楼茶室」、「紅楼書場」、「紅楼」などと称され、平劇(京劇)や越劇(浙江省の地方劇)、流行音楽、歌舞劇、相声(漫才)、話劇(新劇)などが次々に上演されました。1949年、演芸施設を強制的に閉業させる令が発布されました。戦後来台した大陸からの移民が、異郷での上演方法を模索していた過程を反映しています。
劇場時代は長く続きませんでしたが、同時代の中国で芸人が抑えつけられたのとは対照的に、紅楼の自由な舞台作りは、大家と称するにたるスターや舞台・芸能のプロを数多く育てました。例えば、相声の魏龍豪、呉兆南、著名な話劇「賭国仇城」、「三笑姻縁」、「台北小人物狂想曲」の監督を務めた張英、中国で越劇館を設立した呉燕麗、更には鄧麗君(テレサ・テン)、李影、雷鳴、張小燕、葛小宝など、よく知られたスター達が大勢います。

日據時代西門紅樓前方有橢園公園(今捷運西門站6號出口處)及三線道(今中華路),三線道上大王椰子、楓樹、蘇鐵成蔭,有東方小巴黎之稱,橢園公園採法式風格,呈現的是日本明治維新全面西化後的都市規劃特色。
1895年馬關條約簽署內容,臺灣永久割讓給日本,因此日本人將維新西化所學套用在臺灣,十餘年後,日日新報敢言「台北建設不遜於歐美」。
光復後,大陸移民在三線道上佔地搭棚討生活,三線道則改名為中華路。美食作家逯耀東在「中華路再走一回」文中回憶,「窩棚時期」那兒蝟集大同川菜,致美樓、厚德福的北京菜及後來的真北平;後來,「窩棚」實在有礙市容,建成忠、孝、仁、愛、信、義、和、平等八棟的「中華商場」,集合各省口味,點心世界、真北平、小小松鶴樓的姑蘇麵點、吳抄手、好味道的溫州大餛飩、陝西館的泡饃、山西館的刀削面、湖南菜的曲園、江浙的三合樓等等。
中華商場雖豐富了西門町,終因西門圓環交通窒礙難行,在30年後成了都市盲腸,於1992年拆除,只留下世代都市容貌的迥異記憶。

光復後三線道改為中華路,外省移民搭棚蝟集。
臺北市文獻委員會提供

1961年中華商場竣工,為當時重要建設,並帶領西門町進入黃金期。
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